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  1. 【講演レポート】教養講座「上塚 尚孝氏」講演要旨

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【講演レポート】教養講座「上塚 尚孝氏」講演要旨

2015年11月13日

2015年10月16日 東陽石匠館名誉館長 上塚尚孝氏講演要旨

◎肥後 熊本の目鑑橋

石造りの目鑑(めがね)橋の魅力と見所を話す。ある小学生が「めがね橋と言うが、アーチが2つないとめがねと言わないんじゃないですか」と質問した。「1つでもめがねというのがあるでしょう」と言うと、しばらく考えて「虫めがね」と答えてくれた。一つアーチが水に映った姿がレンズの形になるので、熊本では石造りのアーチ橋を目鑑橋という。

一番多いのが大分で490以上ある。大分では「車(くるま)橋」という言い方をする。2番目が鹿児島の450以上。ここでは「太鼓(たいこ)橋」と言う。熊本は3番目に多い。15年前に『熊本の目鑑橋313』を出版したが、改訂版を出すことになり、去年からずっと県内を回った。今回は『熊本の目鑑橋345』となり、今年中に出版される。これに載せたのはアーチ橋だけで、桁橋やモニュメントは除いている。アーチ橋は九州全体では1700基。日本全国の90%を超える数字で、珍しい現象だ。

目鑑橋を架けるのには4つの条件が必要だ。それは政治、経済、技術、資材だ。種山石工という有名な石工集団がいるが、それだけでできるわけではない。政治的には、世話をする人がいて、企画立案があり、組織が作られる。経済的には費用を集め、技術者を呼び集めるという人的条件がある。物的条件としては、資材としての石材が必要だが、九州は阿蘇山噴火のときの火砕流でできた溶結凝灰岩が豊富だ。また熊本市・坪井川の明八橋には島崎・石神山の安山岩が用いられている。天草は砂岩が多い。

政治・経済・技術という条件についてもう少し話す。肥後藩の手永(てなが)制度が注目される。肥後藩は5つの町と51の手永に分かれていた。手永で市役所に当たるのが「会所」と呼ばれ、惣庄屋が勤め、各村の庄屋をまとめていた。布田保之助は矢部手永の惣庄屋だった。

熊本藩は江戸時代の架設数が多い。なぜだろうか。九州で最も早く石橋を架けたのは長崎(1634年)だが、長崎から佐賀を経て大牟田へ伝わるのにはわずか40年。だが大牟田の隣の熊本に技術が伝わるのに100年かかった。熊本藩の6代・重賢のころは財政赤字が増えて政治改革をしなければならなくなった。1752,53,54年の「宝暦の改革」だ。大奉行・堀平太左衛門が推進した。財政赤字を解消するため、「地域のことは地域に任せる」政策を取った。今で言えば地方分権。惣庄屋が推進役となって、川に堰を作ったり用水路を延長したりして田に水を引く(例えば通潤橋)、ため池を作る、道路を整備し川に橋を架ける、荒れ地を開墾する、海を干拓する―などの土木事業を行った。

ところが工事費が集まらない。寄付のことを当時「寸志」と言ったが、余裕のない人は出せない。何か知恵はないかということで、年貢の率を下げることを考え出す。「請免制(うけめんせい)」という。それまでコメ1石(こく)につき4斗8升(48%)の年貢だったのを36%に下げたことで橋を架けられるようになった。年表を作ってみると、熊本では1800年以降に橋が架けられるようになったことがわかる。

次に映像を見ながら橋の見所を紹介する。植木町にある①豊岡橋。1802年にできたので200年以上たつ。つなぎ目に握り飯のような石が詰めてあるのが特徴だ。石がずれないようにとの工夫だ。要石が水の流れと直角に置いてあるのも珍しい。中国の橋も流れに直角という。これを「リブアーチ」という。流れに平行なのは「セグメント・アーチ」という。1808年に架けられた御船町の②門前川(もんぜんがわ)目鑑橋は輪石(わいし)の次に平たい石を積んでいる「二重輪石」。大津町の③光尊寺門前(こうそんじもんぜん)橋を加えて以上3つの橋が200年を超えている。いまは50年持てばよい程度の考えだが、むかしの石工や惣庄屋は永代不朽の橋を造ろうとの心意気で工夫を凝らしていた。

美里町の④雄亀滝(おけだけ)橋は岩永三五郎作の水路橋。通潤橋のモデルの一つとなった。菊池市の⑤迫間(はざま)橋はアーチが扁平で20メートルある。県内でベスト10に入る大きだだ。技術的に高度な技術で造られている。輪石に縦長の石を用い、二重アーチ橋にして壊れないよう工夫している。山都町の⑥聖(ひじり)橋は1823年に造られた。19.5メートルある大きなアーチ橋だ。布田保之助に頼まれた岩永三五郎が手がけた。一時は取り壊されそうになったが、井上清一先生が「三五郎を呼んで架けた大事な橋だ」と土木事務所に申し出られて中止された。平成11年に復元された。復元工事の写真ではアーチの下に「支保工(しほこう)」が見える。支保工は大工の仕事で、石は石工が積む。

次に⑦霊台(れいたい)橋。通潤橋の7年前、1847年でき上がった。アーチが水に映ったとき非常にきれいな姿をしている。真下で手をたたくとこだまする。単一アーチ橋としては日本一の大きさだ。それを終わった石工頭の宇助は阿蘇・一宮に駆けつけて⑧天神(てんじん)橋の工事を始めた。玉名市の⑨高瀬(たかせ)目鑑橋は高瀬裏川に架かる二連の目鑑橋で、60メートル下流に移設された⑩秋丸(あきまる)目鑑橋とともに、菖蒲の花の季節がお薦めだ。

⑪通潤(つうじゅん)橋は放水がないと、がっかりする人が多いが、石組みを見ると、石工の中に美的感性のある人がいたと見えて、うっとりするくらいだ。人吉は江戸時代の石橋は少ないが、⑫石水寺門前(せきすいじもんぜん)橋がある。海棠祭で有名な寺だ。荒尾市の⑬岩本橋は二連アーチ橋。三池藩の櫟野(いちの)の石工が造った。熊本市の⑭明八橋は橋本勘五郎が明治7年に帰って来て明治8年に造った。東京での経験からか、路面を広くし、平面になるよう設計している。橋の姿も江戸から明治へと進化している。

菊池川上流に架かっている⑮永山(ながやま)橋と御船町の⑯下鶴(しもづる)橋も勘五郎の作だ。橋に飾りが多いのが特徴だが、下部を見ると石材の接合面が一直線になっていて、綿密な仕事ぶりがうかがえる。熊本県内には、このように魅力ある石橋がたくさんあるので、一度訪れてみてください。

(文責・井芹)
 

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