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【講演レポート】教養講座「宇都宮健児氏」講演要旨

2015年07月16日

2015年7月3日 宇都宮健児氏講演要旨

私の弁護士人生

皆さんの工学部と私が出た法学部は対極にあるかもしれないが、私の弁護士人生の話を聞いて参考にしてもらいたい。生まれは愛媛県の小さな漁村。父は半農半漁。小学生のとき対岸の大分県国東(くにさき)半島の山奥に開拓農家として入植した。中学から母のきょうだいの家に預かってもらい、熊本市の西山中学に通った。早く親に楽をさせるため金儲けしたいと思って、プロ野球選手になるのが自分なりの夢だった。でも体が小さかったので、1年間、頑張ったが、挫折した。

中学と高校で卓球をしながら、運よく東京大学に合格した。1965年のことだ。文科Ⅰ類というのは法学部に進学するが、メインのコースは官僚や銀行に行くのが大半で、弁護士志望は多くなかった。大学では生活費が一番安いので、駒場寮に入った。一部屋に5,6人入ってカーテンで仕切っただけの共同生活みたいな所だ。

当時、駒場に学生会館があり、卓球部室の近くに部落問題研究会があった。みな深刻な顔をして議論していた。「部落問題を勉強したい」と言ったら、貸してくれたのが『わたしゃそれでも生きてきた』だった。12人の部落女性の手記を集めたもので、どの手記も感動的だった。そのうちの一部が岡林信康の『手紙』の元になっている。全部ひらがなだけの手記もある。文盲だった人が同和教育で「あいうえお」を初めて習ったのだ。私の両親は高等教育を受けていないが、字は書けた。字を書けない人がいることに衝撃を受けた。

福岡の筑豊炭鉱の子供たちの作文も読んだ。『小さな胸は燃えている―産炭地児童の生活記録集』だ。エネルギー政策の転換によって炭鉱は縮小され、子供たちの生活も荒れていた。親が「泥棒して来い」という内容だ。こうした社会的な現実に目をやったことで、「親を楽にさせたい」ということに疑問を感じ始めた。そういう時、1年先輩の「弁護士を目指す」という人に出会った。その先輩は「大きな会社では歯車のひとつになる。弁護士は自由であり、たまには人助けもできる」と言われ、もしかして自分は弁護士があっているのではないかと考えた。

まず司法試験に受からないといけないので、卓球は大学3年生の関東リーグ戦までで、その後、猛烈に勉強し在学中に司法試験に合格し、1971年に弁護士登録した。多くはまず既存の事務所に勤め、人脈を広げて独立する。そういうのを「イソ弁」と言う。居候(いそうろう)弁護士の略だが、イソギンチャクと同じく他人の世話になるというわけだ。使っている方を「ボス弁」と言う。ふつうイソ弁は3~5年だが、私は要領が悪く、8年もいてボス弁から「あんた長いじゃないか」と暗に辞めるように言われた。それで私の所属していた東京弁護士会の職員にイソ弁を探しているボス弁がいないか尋ねに行った。

「サラ金」とはサラリーマン金融のこと。暴力的、脅迫的な取り立てで自殺が多発し社会問題となった。サラ金の相談が東京弁護士会の法律相談センターにも来るが、やる人がいない。そこで私にボス弁を紹介した東京弁護士会の職員が法律相談センター担当の職員に「暇な人がいます。イソ弁を8年もやって、田舎出の、人のよさそう人です」と言って私にサラ金事件が回ってきた。サラ金事件の処理の仕方を同僚弁護士に聞いて回ったが、誰も「やったことがない」という返事だった。見よう見まねで始めた。弁護士がついていても本人への取り立てが夜の12時にやって来る。やっと追い返すと、また朝に別の業者がやってくる始末。しかし、相談に来たとき目が充血して寝不足だった人が2、3週間後には顔に赤みがさして元気になってきたのを見てやりがいを感じた。そうなると東京弁護士会の法律相談センターでも私のほうにどんどんサラ金事件を回してくるようになった。一人ではとても対応できなくなったので法律相談センター内にサラ金専門の相談窓口をつくった。

それから新しい法律を作ったことが大きかった。1983年11月にサラ金規制法が施行され、サラ金業者が登録制になった。なかでも取り立て規制が、効果があった。生活の平穏を害する取り立てができなくなった。何がそれに当たるかを定めた大蔵省通達の下書きは私が提出したものだ。夜中や早朝の取り立てを禁じたり、弁護士が中に入ると直接取り立てはできないとなった。それまでサラ金業者から「ボケ、カス」と言われていたのが、それ以降は「宇都宮先生いらっしゃいますか」となった。法律の効果はすごい。これで違法な取り立てがピタリと止まった。

次に「ヤミ金」に取り組んだ。ヤミ金融業者のこと。「トイチ」というのは10日で1割。年率に直すと365%になる。ヤミ金の多くは「トヨン」(10日で4割)「トゴ」(10日で5割)だった。ヤミ金は犯罪なので全国一斉の刑事告発を繰り返し、これまでに6万6000社を告発している。貸金業法ではグレーゾーン金利が残っていた。年20%を超える金利は支払う必要がないが、年29.2%未満だと処罰されないので、年20%超の金利は野放し状態だったので、国会議員全員に会って説得して新しい法律を作ってもらった。業者側はグレーゾーンを撤廃すると弁護士の仕事も少なくなるから本気じゃないと甘く見ていた。しかし弁護士は自分の首を絞めてでもやるべきことをやるということを彼らは知らなかったのだ。

高い金利でも金を借りる背景には貧困がある。2008年リーマン・ショックのとき野宿を余儀なくされた失業者のために年越し派遣村をつくった。505人が入村した。日本は経済大国なのに仕事を失うだけで住まいも失ってしまう労働者がたくさん存在する。年越し派遣村の取り組みによって貧困が広がっていることが可視化された。2010年、日弁連の会長選に出た。弁護士会には派閥があって、これまでの会長はどこかの派閥に属していたが、私はどこにも属さない無派閥の候補だった。地方の弁護士さんに支えてもらって当選した。会長時代には貧困問題に取り組み、東日本大震災・福島原発事故が起きたので被災者の救済や原発の問題にも取り組んだ。

東京都知事選挙にも2回挑んだ。都知事なら反貧困、反原発をより大きく展開できると考えたからだ。当選しなくても、これらの問題は現在もやっている。弁護士は経済的な弱者の味方だ。44年間、弁護士をやってきた。2度もクビになって、13年目に独立したが、サラ金事件をやるようになったのはそのお陰でもあり、回り道も悪くなかったと思う。日弁連会長になったとき「2回クビになった」という話を若い弁護士にすると、彼らは勇気付けられるようだ。父が国東半島でみかん作りをしていたので、もしやっていけなくなったら農業でもしようと覚悟していた。しかしクレ・サラ問題は日本の構造的な問題であり、あの時やめずに正面から取り組んでよかったと思う。弁護士はすばらしい仕事だ。きょう皆さんに話ができるのもそのお陰だ。

(文責・井芹)

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(敬称略)